当院のご紹介

院長紹介

とおる歯科院長 奥田徹をより知っていただくために

院長経歴
1999年 国立徳島大学歯学部 卒
1999年 医療法人緑和会 瀬田グリーン歯科勤務
2001年 大阪市 橋本歯科医院勤務
2007年 とおる歯科 開院

幼少時代

わたくし奥田徹は、京都南部のド田舎(現在は開発が進み見違えるほどの街になっていますが)で幼少期を過ごしました。家の周りは田んぼや畑ばかりで、夏はカエルの鳴き声に悩まされたり一方でホタルを部屋で放し飼いしながら寝るといったぜいたくを味わえるほどの田舎でした。(そのためか、学生時代ホタルを見に行くという行為に納得できませんでした・・)

性格は活発で、少年野球に所属し運動神経も悪くなく、勉強もそこそこというありがちな小学生でした。
私の父親は普通のサラリーマンでしたが、異常にしつけに厳しく、ご飯を食べるのが遅いと皿をもったまま外に連れていかれて、コンクリートの上に正座させられ食べ終わるまで家の中に入れてもらえないという(ごく1例です)すさまじさでした。その父の口癖が「医者になれ!」で、必然的に「将来はお医者さんを目指さないといけないんだ」と思っていたわけです。

4年生から電車で30分位のところの塾に週3回通い始めました。いわゆる中学受験を目指してです。学校ではそこそこの成績でも、塾では中の上といったところでしょうか。高学年になるにつれ勉強は難しくなるし、でも遊びたいしみたいな状態のためグングン成績は落ちました。受験シーズン前の面接では「○○中学を受験しようと思ってるんですが、どうでしょうか?」という母親の質問に対して、塾の担任は一言「受験するのは自由ですから・・・。」

結果は・・○大寺学園中学、○○大付属中学など全敗。最後の学校は、試験に受かりながらも抽選で不合格という弱冠12歳にとっては少しきびしいものでした。その帰りは「一人で帰る・・。」と泣きながら帰ったのを覚えています。ただ、この経験はその後の人生に役立ったのは言うまでもありません。

中学時代

小学校卒業と同時に、奈良県中部の新興住宅地(ちょうど西宮名塩とよく似た感じです)に引っ越した私は、普通の公立中学に入学するわけです。ただし、当たり前ですがまったく友達がいません。
学校自体できたところで、1期生です。教室でも一人無言で、入学式という華やかな行事とは結び付けるのが難しいものでした。家に帰ったわたしは、おもむろに名簿の中のひとりに電話をしたのです。
「あそぼー」
相手がだれか、どんな人かもわからずです。若いって素晴らしいですね!! 最初は「なんちゅうやつや。」みたいな雰囲気がみんなの中にありましたが、だんだんと仲間が増え最後には学年でも中心的な存在になっていました。

勉強のほうは、小学校の経験もあり3年間通じてほぼ上位でした。
進学したい高校は決まっていました。奈良県立畝傍(うねび)高校です。理由はラグビー部があったからです。100%「スクールウォーズ」の影響です。小学生時代に見たの壮絶な物語が深く印象に残っていたのでしょう、何の迷いもなく早くからそう決めていました。

高校時代

無事畝傍高校に入学できた私は、早速入学式の日にラグビー部に入部しました。先輩達がすごく大きく、大人に感じたのを覚えています。練習は当たり前ですがかなりハードでした。特に最初はボールを使わない練習が多く、陸上部よりも走っていたような気がします。

だんだんと時間がたつにつれて大体のポジションが1年生に与えられました。特に体格が良いわけでもなく、経験者でもない私にはスクラムハーフ(SH)というポジションが与えられました。わかりやすく言うと、スクラムにボールを入れて、後ろの人にパスをする人です。しかしこのポジションは結構やることが多いんです。1学年上の同じポジションの先輩は、中学からの経験者でパスなんかも速くてすごいんです。自分のパスはというと、相手に届くか届かないかというレベルです。

全体練習後も一人でよくパスの練習をしてました。100本くらい練習して帰ろうとしたら、同級生の経験者の仲間から「堀越(当時早稲田大学のSHですごい人)でも1日1000本位練習してんのに、お前が100本でどーすんねん!」といわれ、あらためて自分にはむいてないのかなと感じました。ただ、集団スポーツのなかでは1番人数の多い(15人)スポーツなので、にぎやかな、ちょっとばか騒ぎ系のノリにはすごく楽しさを感じていました。「スタッフみんなが楽しく働ける歯科医院を!」というモットーはここから来ているのかもしれません。

2年生になり試合にも少しずつ出れるようになり、よりラグビーの楽しさにハマってしまいました。進学校のため、2年生で部活動は終わるのが通常でしたが、結局3年の11月までみっちりやっちゃいました。その結果、495人中480番代という具合で勉強はもう手のつけられないほどの状態となっていたのです。

相変わらず父親には「医者になれ」と呪文のように唱えられていた私ですが、自分は美容師になりたいと思っていました。しかしそれが許されない状況でどうするか悩んだ結果、もともと細かい作業が好きだったこともあり歯科医師を目指そうと思ったのです。

予備校時代

一応受験した大学はもちろん不合格で、当たり前のように予備校に通いだした私。「今年がだめなら就職や。」という悲壮感から何とか頑張りました。成績もそこそこになり、模試では歯学部合格圏内の評価をゲットするまでになりました。しかしここで事件が起こります。12月3日、寒い冬の日でした。オートバイで車と正面衝突!!!20mくらいふっ飛びました。普段はヘルメットをかぶっていなかった私でしたが、その日は寒すぎたためにヘルメットをかぶっていたのが不幸中の幸いでした。意識が戻ったとき、昨日勉強した地理の内容を覚えていたので記憶喪失になっていなくてホッとしたのを覚えています。

両手両足骨折、前歯1本折れ。(自分が歯科医師になってから、この治療がすごくいい加減なものでビックリしました!)救急車で運ばれた日の夜は、痛みと「このまま死ぬんちゃうか。」みたいな恐怖感から眠れませんでした。とりあえず精密検査の結果、脳などには異常はありませんでした。ラグビーで首を鍛えていたせいか、ムチウチにもなりませんでした。

とはいうものの、完全寝たきりで勉強どころか、トイレさえひとりではできません。こんな状態ですから「もう受験するのは無理やなー。」と思うのは当然です。センター試験まで約1カ月ですから。かなり自暴自棄になり、励ましてくれる母親にも当たり散らしました。結局その年の年末になってリハビリがはじまりました。といっても、松葉杖での歩行練習や腕を少しずつあげるといった程度のもので、けっして「動ける」といったものではないです

年が明け、何とか鉛筆を持つことができるようになった私は、杖をつきながらセンター試験を受験しました。(マークシートでよかったです。)そして徳島大学歯学部を受験しました。その結果何とか合格でき、いよいよ歯学の道へと足を踏み入れるのでした。

大学時代

希望に満ちた大学生活が始まりました。何事も新鮮でした。一人暮らし、自動車学校、飲み会・・。しかし学生といえばやはりバイトでしょう。あらゆるバイトをしました。ファミレス、家庭教師、引っ越し作業員、ビラ配りetc。この中でも私の人生に大きく影響を与えたものがあります。それは塾の講師です。小3から高3まで教えましたが、自分の専門は中学受験の算数でした。自分自身、中学受験を経験しておりなおかつ失敗しているというお手本でしたから、その体験を元に生徒たちのサポートをするのはとてもやりがいがありました。結局6年間も勤めました。
「教育は、共育と心得よ。」
これはその塾の社訓で、自分自身受験に奮闘する子供たちから教えてもらったことです。

「教える」という、上からの立場からではなく、こちらも共に学んでいこうという姿勢。診療の現場でも、患者さまを一方的に「治す」ということではなく、「共にお口の健康を考える」という診療スタイルはここから生まれています。なぜなら、一方的ではうまくいかないからです。お互いに協力し合うことによっていい結果が出るからです。これは勉強でも、お口の健康づくりでも共通と考えています。

さて、バイトに夢中になった私は、1年間留年してしまいました。「まあいいか。」くらいに考えていた私ですが、その何年後かにその留年がいかに大きな1年かを知る時がやってくるのです。
実は、私が歯科医師になることを一番応援してくれていた祖父が卒業の2か月前に亡くなりました。祖父には留年したことを隠していたので、私が歯科医師になっているものと思い込んだままでした。「今度来るときは歯医者の免許見せてや。」これが亡くなる前の日に祖父が私にかけた最後の言葉でした。入れ歯が合わなくていつもやわらかい物しか食べられなかった祖父を、いつか治療してあげたいと思っていた私でしたが、結局何もしてあげられませんでした。
「あと1年早かったら!!」
あの最期の日、祖父が寝る前に入れ歯を外してあげたのですが、その時の喜んでくれた顔を今でも忘れられません。

勤務医時代

もともと机に向かってする勉強が苦手なわたしは、早いうちから勤務医として卒業後は大学に残らず社会に出て勤めたいと思っていました。まずお世話になったのが滋賀県に多数医院がある大規模な歯科医院でした。ここでは歯科治療の基本から、社会人としての意識など今の自分の基礎になる部分を教わりました。理事長先生はじめ素晴らしい先輩にも恵まれ、毎日ハードでしたが日々進歩していることが感じられる素晴らしい病院でした。すこしずつですが一般的な診療ができるようになったわたしですが、もっと違う診療スタイルも知りたいと思い約2年間でやめました。

その後、大阪市の肥後橋というビジネス街にある歯科医院で勤務し始めました。ここでは患者さまに説明をするためだけの時間をとったり、いろんな治療方法を提案させていただくといった、患者さまにできるだけ説明をさせていただく大切さ、また楽しさを教わりました。患者さまに喜んでいただけることがすごくうれしく感じ、「歯医者になってよかった。」とようやく思えるようになってきました。5年間副院長として勤めるなかで、「もっと早くから歯を大切にしておけばよかった。」という患者さまからのお話が多く聞かれ、そのうちに「子供たちに歯の大切さを伝えたい!!お子様からご年配の方まで、皆様のホームドクターになりたい!!」という気持ちが日に日に高まってきました。

開業して

そこで、そのような気持ちで皆様のお役にたてる地域ということで、平成19年3月西宮名塩駅前に開業させていただきました。西宮名塩 とおる歯科のコンセプトは
「皆様のホームドクターになって健康づくりのお手伝いをしたい!!」
「十分な説明や、患者さまとのコミュニケーションを大切にしたい!!」
「リラックスできる怖くない歯科医院にしたい!!」
「最新・安全な治療を提供したい!!」

です。

お恥ずかしい話ですが、わたし自身、患者として歯科治療を数多く経験しており、その大変さは自分でもすごく感じておりました。ですので、患者さまのペースにあわせた治療・ご予約を心がけております。こちらからの一方的な歯科治療ではなく、患者さまに納得していただき、いっしょにお口の健康、しいては全身の健康づくりができればと思っております。

私どもは、今後とも健康志向の高い皆様のお役にたてるように日々研鑽していきます!!!